土門拳
土門拳は生前、故郷 山形県酒田市(さかたし)に自分の全作品を寄贈した。
その作品の一部、300点が現在、長野県松本市の美術館で展示されている。
土門拳の昭和 長野県松本市美術館 2011.9.4(日)まで。
土門拳がファインダー越しに捕らえたものを時間軸で追っていく。
横須賀や土浦で整然と訓練に励む兵隊たち。
献身的に尽くす従軍看護婦のポートレート。
(そのまっすぐな左目を構図のセンターに置く天才土門。)
偵察機のプロペラを勢いよく回す兵隊。
東京の菓子屋の若旦那の出兵の様子。
送り出す若妻の気丈な顔。
そして敗戦。
進駐軍が占拠したビルの壁にかかる、太平洋戦争で亡くなった従軍カメラマンのポートレイト。
同じプロカメラマンとして土門はその米国人の顔に何を見たのだろう。
復興する銀座。
そして、ヒロシマに出会う。
マスコミにより隠蔽されてきたヒロシマのリアルに正面から向かい合った土門拳。
「原爆」により引き起こされた現実が戦後、隠蔽されてきたことに気づく。
それから土門は、被写体として敢えて被爆者を捕らえる。
被爆者は、土門のレンズの前にその素顔を晒す。
何故なら。。
『「すべての国民が再び自分たちのようなみじめな姿になる事がないように」と自ら進んでカメラの前に立って、逆に一般国民に連帯する「悲願」を示してくれたのだった。』1958.3.1 土門拳
■釜ケ崎
1961(昭和36)年8月
大阪市釜ケ崎で警官の交通事故処理をめぐり派出所に火を付ける騒動が起こった。
9月に日本最初の港湾荷役労働者の組合が釜ケ崎に生まれた。
850-/スクラップ
1,100-/セメント
このスナップも興味深かった。
港湾荷役労働者は低賃金で働かされ、その殆どはピンハネされていた。
それを救おうと立ち上がった組合の活動の原点が、大阪市釜ケ崎にあり、土門はそのリアルを捕らえていた。
かつて、日本は、(1985年まで) 労働者を守るため、人材派遣を許さなかった。
雇用者と使用者を分けることは禁止された。
システムエンジニア需要を口実に、1985年派遣法の検討が開始される。
1999年小泉政権によりタガがはずされ、とうとう2004年には、製造業にまで派遣社員の対象が解禁される。
先人が築き上げてきたものを私たちは失い、まるで、50年前にまで後戻りしてしまったかのようだ。
派遣社員を仲間として連帯できない、企業内労働組合の限界。
土門拳は、1979年9月11日、三度目の脳血栓で倒れる。
それから11年間、目覚めることなく息を引き取る。
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