OLYMPUS OM-1
OLYMPUS OM-1というカメラをご存じだろうか。
一眼レフといえば、NIKON, PENTAX が競っていた時代。昭和48年(1973)に彗星のごとく現れた一眼レフカメラ。
当時天文少年だった私は、フォーカシングスクリーンを交換できる、ミラーアップできるなど本格的な機能がありながら、一般人にもどうにか手の届く価格で登場したこのカメラに惚れ込んだ。
カメラ屋のショーウィンドウを何度ものぞき込み、カタログをもらってきて、1字1句文字に穴が開くほど(大げさか)読み込んでいた。
昭和50年にとうとう手に入れた。高校1年だった。
今日、こんな写真展があったので、ふと寄ってみた。
写真展の入り口のショーウィンドウに並べられた名機をじっと眺めながら、
そこにいらした方に、OM-1の思い出話を少しだけしてみた。
Kさん オリンパス辰野OB会写真展を企画した会員のお一人だった。
オリンパスの設計者だったKさんは、無理難題言ってくるOM-1産みの親、まいたに さんと、当時何度もOM-1の製造方法について、ガチンコした。
とうとう本社設計部から「米谷、岡谷へ行って来い」ということになり、
東京でOM-1を設計した米谷(まいたに)さんが製造立ち上げのために、長野県の岡谷市に1年間缶詰になった。
その時に、一緒に量産製造方法について米谷(まいたに)さんとガチンコしたまさにそのご当人だったことが分かった。
真鍮(しんちゅう)が常識だったカメラ側のバヨネットマウントを米谷氏は耐久性を高めるためステンレスにしたいと言う。しかし、当時ステンレスを高精度に加工できる会社は無く、どうにか或る加工会社1社のみが加工に成功したこと。
ペンタプリズムの外装金属。深絞り加工のままでは、エッジが立たないと、OLYMPUSの文字の上を深絞り加工のあと敢えてフライスで再加工したこと。
いぶし銀の風情を出すためにサンドブラスト加工を工夫したこと。
OM-1は大ヒットし、昭和50年には日産500台を超え、それまでの手作り工程では製造が間に合わなくなり、一貫製造ラインを立ち上げたことなど。
この一貫製造ラインだけに当時のお金で億単位の投資をした。
この量産製造ライン立ち上げを請け負った会社が、とあるメーカーだったこと。
そしてこのラインを別の下請け製造会社が受注したいと挑戦したが、結局5/100mmの精度が出ずに降参したこと。
当時の物作りの現場の息吹を感じた。
OM-1の生まれた歴史をまさにそれを生み出したご本人から話を聞く機会に恵まれた。
太平洋戦争中に長野県岡谷市に高千穂光学(今のオリンパス)は疎開してきた。
今の長野県岡谷市長地(おさち)小学校の向面に当時の製造工場はあったそうだ。
今はオリンパスの会社倉庫になっているとか。
東京方面から国道20号を走ると現在、京セラが買い取ったYASHICAの工場が有る。そのあたりだ。
OM-1は私が光学や物作りにのめり込むきっかけになった宝モノである。
その縁のあるモノづくりに関わった方に、偶然出会うことができた。
感謝の1日だった。
■補足
■補足 2011.6.1
(リンク切れの為 URLを更新:2024.6.18)
(リンク切れの為 URLを更新:2023.1.19)
page-133 第7章 諏訪地域中小企業における対応力の歴史的形成過程
出典:
https://www.smrj.go.jp/research_case/knowledge/fbrion0000002pv0-att/h21shuusekijizoku.pdf
https://www.smrj.go.jp/research_case/research/knowledge/frr94k0000000oux-att/h21shuusekijizoku.pdf
http://www.smrj.go.jp/doc/research_case/H21shuuseki-2.pdf
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